カテゴリ:2004( 9 )


2007年 04月 01日

下川鉱山・架空導水管

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2004年10月14日・北海道上川郡下川町班渓


何処までも続く無機質な造形は、
深い谷の緑と調和することなく存在する
不協和音。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


1933(昭和8)年頃に露頭が発見され鉱区整理が行われる。
1941(昭和16)年に三菱金属鉱山に事業が移され、その2年後から軍需鉱山として開発が促進された。
戦局が悪化すると休山を余儀なくされるたが、終戦後の1949(昭和24)年に操業を再開。
1963(昭和38)年の銅貿易自由化を、合理化で乗り越え国内有数の銅山となる。
最盛期には年産3万3000t、従業員も570人の規模となった。
     
しかし1982(昭和53)年に資源が枯渇し、
以前から経営を苦しめていた経費高騰・海外からの大量の原料輸入にも対抗できずに、
翌年の1983(昭和54)年に閉山となった。
     
また地下水等による坑内から重金属の流出を防ぐため
職員による管理は今でも続いている。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-04-01 20:45 | 2004
2007年 03月 21日

旧国鉄 ヨ3500形 車掌車(JR上幌延駅)

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2004年10月14日・北海道天塩郡幌延町字上幌延


すべての無駄をはぶき
合理化され尽くしたものは、
ときに『暖かさ』というもの失う。

でもこの味気なさが、
北の大地には似合っている。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


1987(昭和62)年、国鉄が分割民営化されJRに移行するために、
北海道では多くの赤字ローカル線が廃止された(JRになってからも廃線は続く)。
また廃止の対象にはならなかった路線でも、駅の無人化や古びた駅舎の解体、置き換え等が行われた。
それによって登場したのが、貨物列車用の車掌車を用いて造られた代用駅舎(待合室)である。
ベースになった車輛はヨ3500で、この車輛の多くはのちに高速対応の改造を受け
ヨ5000(形式変更)となったが、北海道では未改造のヨ3500がそのまま車掌車全廃まで使われていた。

これらの駅は宗谷本線に数多く存在し、花咲線(根室本線/釧路―根室)・日高本線などでも見ることができる。

*写真は宗谷本線/上幌延駅
 
 
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by mori-to_coa | 2007-03-21 00:00 | 2004
2007年 03月 11日

稚内港北防波堤ドーム

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2004年10月14日・北海道稚内市開運


永延たる回廊は
過去と未来をつなぐ。

幾人もが歩き染めた記憶は
現在も引き継がれ、
想いは、今も刻まれている。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


防波堤を乗り越える波によって起きる船舶停泊の支障を防ぐために、
5年の歳月をかけて1936年(昭和11年)に完成した高さ13.2m、長さ424mにもおよぶ半ドーム型防波堤。
古代ローマ建築を想わせる太い円柱が特徴的な、世界でも類を見ない港湾施設である。
当時はドーム下が通路となり樺太(サハリン)への連絡船の乗船ブリッジまで続いていたが、
戦後は航路が途絶えて役目がなくなり、石炭などの資材置き場として利用された。
その後老朽化が進んで朽ちるところであったが街のシンボルとして、
1981(昭和56年)に要望による改修復元工事(期間約3年)を終えて、ほぼ建築当時の姿を再び現した。
今も堤防として利尻・礼文、そして再びサハリン航路の船舶を守ることに変わりはない。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-03-11 07:30 | 2004
2007年 03月 01日

旧日本海軍大岬望楼

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2004年10月14日・北海道稚内市宗谷村


遠く島影を望み、
流るる潮風に最果ての地を想う。

過ぎ去った時間は戻らない。

もう変わることのない国境の海は、
すべてを呑みこむかのような
灰色の世界を拡げていた。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


1902(明治35)年にロシアとの国交悪化の備えとして、旧日本帝国海軍が建設したもの。
国境の海上監視に使用され、重要な任務のひとつに当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊の監視活動があった。
しかし1904(明治37)年に無線設備が整備されると、監視よりも無線通信所として機能した。
太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用された記録も残っている。
いずれにしても国境の海を守る重要な役割を果たした施設であった。

また稚内市には他に明治年代の建築物が現存せず、
1968(昭和43年)に市の有形文化財に指定されている。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-03-01 00:00 | 2004
2007年 02月 22日

浦幌炭鉱住宅

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2004年10月12日・北海道十勝郡浦幌町字福山


過ぎ去りし日々は遠い想い出。

繰り返された日常は、
華やかだった時代の象徴。

今は深くなりつつ緑に
長い影を落とす。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


しっかりとした形で残っているものは炭鉱住宅だけだが、
確かにこの辺りに街が存在していた。
ほかに病院跡が比較的わかりやすいのだが、
いずれにしても基礎だけである。

この建物自体も使用されたブロックやコンクリートの劣化が激しく、
崩壊を心配するほどであったが、近年、保存するための補修が施された。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-02-22 00:00 | 2004
2007年 02月 12日

砕石場跡

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2004年8月9日・北海道根室市花咲港ワッタラウス


開かれた空間に、
文明の凄さと欲、増殖する生命の儚さを感じた。

緑は失われた時を取り返すかのようのに
萌えていた。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


砕石場は永遠にその場所で稼動することは少なく、
予定範囲や砂利の質が悪くなると生産を終了する。
またこの地域で利用されるのは主に玄武岩である。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-02-12 17:11 | 2004
2007年 02月 02日

オホーツク水族館跡

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2004年6月13日・北海道網走市二ツ岩


微かに残る記憶。
華やかだった時代は過ぎ去る。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


オホーツク水族館は全国で10番目の水族館として1956(昭和31)年に開館する。
地元、網走市に面するオホーツク海に生息する魚類、海獣(哺乳類)など約150種・10000点展示し、
市民・観光客を楽しませた。
その中でも北の海にしか生息しないオオカミウオやクリオネの飼育展示が有名であった。
近年、全国的な大型回遊水槽を持つ大規模な水族館の登場によって、
規模の小さな水族館からは客足が遠のきつつあり、
ここも2002(平成14)年8月31日を持って閉館する。
施設のほとんどは既に解体された。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-02-02 20:15 | 2004
2007年 01月 31日

旧 明治鉱業・本岐炭鉱

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2004年5月5日・北海道白糠郡白糠町中庶路


出来たばかりのコンクリートほど無機質なものはなく、
自然の中では異物以外の何ものでもない。

だが、その地肌に風・雨を刻み、
植物と共に歳月を過ごしたものは
ある種の調和を見出す。

そして、
やがて土にでも還るようような
生命の存在させ感じさせるようになる。


(廃墟のそんなところに、惹かれてるのだろうか…)


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


1924(大正13)年に庶路本岐炭鉱(株)によって開鉱されたが、
1938(昭和13)年には明治鉱業の傘下となり庶路鉱業所本岐鉱となる。
選炭は庶路鉱まで7.0kmの専用軌道で運び行っていたが、
その後、1961(昭和36)年に独立した鉱業所となった。
現在の遺構の多くはそれ以降の施設と考えられるが、
ここ自体も1969(昭和44)年には閉山となっていて、
規模が大きい割には短い使用期間であった。
炭鉱はいつも国策と経済、そして景気に翻弄され来たが、本岐炭鉱も同じである。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-01-31 10:30 | 2004
2007年 01月 21日

浦幌炭鉱専用軌道・常室川橋梁跡

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2004年5月5日・北海道十勝郡浦幌町字炭山


『黒いダイヤ』といわれた石炭を求めて人々が集まる、
そういう時代が確かにあった。

しかしエネルギーが石油、そして電力へと変化し、
石炭は急激に輝きを失くす。

炭鉱が閉ざされ、人々が暮した街が消えた。
その施設の一部が、この地の歴史を伝える墓標。


                          ●OLYMPUS CAMEDIA C-300zoom


   ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


浦幌炭鉱は1918(大正7)年、大和鉱業(株)が開発に着手する。
送炭のため馬車軌道を根室本線・浦幌駅(国鉄)まで建設するが開通には至らなかった。
1921(大正10)年には大戦後の不況で休山に陥る。

景気が上向きだした1933(昭和8)年に再開され、ようやく出炭が本格的になる。
炭山へ入る専用鉄道の工事もはじまったが、
1935(昭和10)年の豪雨などの影響で開通は実現しないまま、
1936(昭和11)年、三菱鉱業(株)に買収され、雄別炭礦鉄道(株)の尺別鉱業所の管理下となる。
送炭の問題は索道で山越しに尺別までを炭車で送る方法を考え出し、出炭量を急増させることに成功した。

1942(昭和17)年には専用鉄道の尺浦通洞(約6㎞)が完成。
出炭量もさらに伸びることを期待していたが、
太平洋戦争末期の坑夫の強制配転により、また休山に追い込まれる。

1948(昭和23)年、みたび採炭を開始し、出炭22万トンまで回復するが
その後、出炭量増加の要因だった朝鮮戦争後の反動不況で石炭が売れず、
1954(昭和29)年10月、閉山となった。
 
 
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by mori-to_coa | 2007-01-21 23:45 | 2004