2014年 02月 16日
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by mori-to_coa
| 2014-02-16 19:07
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2013年 12月 27日
![]() 2014年2月1日(土)―2月16日(日)12:00-20:00 火曜休 北海道帯広市・FLOWMOTION cafe & gallery ※2/8(水)は、ギャラリー都合により18:00まで。 ※最終日2/16(日)は17:00終了、撤収となります。 詳細はMORI Toshihiro Websiteにて #
by mori-to_coa
| 2013-12-27 16:45
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2013年 06月 06日
![]() 2013年6月19日(水)―7月7日(日)12:00-19:00 月・火曜休 東京都江東区・ArtLabo深川いっぷく ブログの更新はしてませんが、活動はしていますよ。 東京でのグループ展に参加します!どうぞよろしく。 詳細はMORI Toshihiro Websiteにて #
by mori-to_coa
| 2013-06-06 18:48
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2013年 03月 26日
![]() ■ 夕張市鹿島 / 1997年10月6日 ■ 初めて訪れた夕張市鹿島は、 古い街並みが続く、割と大きな集落だった。 ご老人が目立つが人々が暮らし、 その光景は、よくある北海道の山村のそのもの。 ただ、違っていたのは集団移転で、 地区そのものがなくなることが決まっていたことである。 すでに空家や廃屋、先行して移転した住宅等の解体が始まっていて、 その中で日々の暮らしが営まれていた。 移動販売車がかなり寂しくなった住宅街の一角に止まり、買い物に集まる住民たち。 何時からかは分からないが、商店などのほとんどはもう営業していないようだった。 国道を股ぐ歩道橋に『ありがとう… 』、『さよなら… 』とか横断幕が掲げてあった記憶があるが、 撮らずに後にしたので、ひょっとしたらまだ走っていた路線バスだったかも知れない。 ただただ、切なさに襲われる集落(まち)の状況だった。 廃墟には歴史や時間、生活や人の記憶が宿る。 それを撮れたらと想って始めたが、しかしその一歩手前は悲壮感に満ち、 すごく辛いもであった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 三菱鉱業の炭鉱とともに発展した夕張市の一地区。集落人口は最盛期で2万人にもおよび、 ひとつの都市並みに社会インフラが整備され、大変栄えた街であった。 石炭産業の下火とともに衰退が始まり、1990(平成2)年の三菱南大夕張炭鉱閉山が決定的となる。 その後、シューパロダムの嵩上げ事業により、地区全体が水没するため集団移転となり 1998(平成10)年に住民の全てがこの地を去った。 #
by mori-to_coa
| 2013-03-26 00:00
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2013年 03月 19日
![]() ■ 美唄市我路 / 1999年10月5日 ■ 私が周った多くの旧産炭地で、今でも印象に残る出来事、 それは美唄市我路を初めて訪れた時の光景である。 古びた木造が続き、 屋根の落ちた廃屋に露出する生活用品の数々。 積まれた畳、布団の生地の白さが目につく。 ゴーストタウンの様相を呈していた集落(まち)は、 ひどく荒れた状態で、まるで打ち捨てられたようであった。 写真を撮るのをためらうような中で、 お構いなしに道道の橋の付け替え工事が進んでいる。 気づけば長屋の玄関先で、心配そうに見つめる白髪の老婆の姿に、 如何ともしがたい感情が湧いた。 「今、必要なのは、これではないだろう… 」 廃墟を撮るならフィルムが何本あっても足りないだろう そんな我路の集落で数回だけシャッターを切り、車を走らせた。 もちろん今では有名になった映画館の映写室も写っていない。 何も写ってはいない。 ◇ ◇ ◇ ◇ 美唄市内で最後まで残っていた北菱産業我路炭鉱の閉山は1973(昭和48)年。 基幹産業を失った我路地区の衰退は著しく、空家が放置されていた。 冬期の積雪による屋根落ちや倒壊が多く、すごく荒れていたが、 その後、撤去や整理が行われ、草生した空き地が目立つ集落となった。 街並の一角にある往年の繁栄を伝える我路映劇は、 8年後の2007年10月7日の再訪時に撮影しているが、 老婆の住んでいた長屋はなくなっていた。 また集落を通る道道135号の延伸工事は、完成すると富良野市の島ノ下まで繋がるが、 美唄市側が遅々として進んでいない状況である。 #
by mori-to_coa
| 2013-03-19 00:00
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2013年 03月 12日
今や伝説となりつつある北海道のカントリースタイルマガジンEastSide このブログ『遠い記憶、忘れられた風景』が、誌面版として17~20号まで連載されていた。 時を同じくして連載がはじまったのが、ボールペン1本で描く山宮喬也さんの『駅舎の風景』で、 私も掲載誌が届くと欠かさずにチェックしていたものだが、気づけば昨年2012年12月に1冊の本になっていた。 しかも北海道の鉄路・全505駅を描き上げた力作となっていた。 厚さ4.5㎝、時刻表を想像させる心地い重さ、それは懐かしさに出逢う592ページの旅である。 ![]() お問い合わせ バルク・カンパニー 購入 Amazon ◇ ◇ ◇ ◇ イーストサイド(バルク・カンパニー発行 年2刊のちに季刊)は、2000年に発行を開始した道東を中心とした地域情報誌。 その誌面の切り口から愛読者も多かったが、残念ながら2010年の24号を持って休刊となった。 #
by mori-to_coa
| 2013-03-12 23:59
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2013年 02月 26日
![]() ■ 駅前旅館 / 1997年8月22日 ■ JR根室本線の門静駅(閉ざされた記憶01)に立ち寄った後、 同じ厚岸町内にあるに太田地区(屯田兵村)を見て、 再び同本線の上尾幌駅に行っている。 これ以前、列車に乗った時に車窓の風景として、 チラリとこの集落を見たことはあったのだが、正直いって驚きだった。 今は空家・廃屋などが大分整理されたが、 この1997年当時の姿は、時間の止まった町、 過去の町のようだったからである。 新しい産業が生まれず、一気に勢いをなくした様相は、 駅前に残る古い木造洋風の旅館が物語っていて、 その他にも一様に古い家屋が目立つ。 最初は林業だけかと想っていたが、後に炭鉱があったことも知る。 やはり『黒いダイヤ』と呼ばれた石炭が生み出す富の力は凄い。 そして夢が去った後の絶望感も、ただならぬものがあるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 厚岸町上尾幌地区には小さいながらも4鉱の炭鉱が操業し、飲食店や商店などが約20軒、 尾高・樋口・杉山と3軒の旅館が存在していた。1940(昭和15)年頃の地区人口は3800人を数える。 また八千代炭礦へのトロッコ軌道や、大東炭鉱、釧路炭礦青葉礦業所それぞれに馬車軌道が 上尾幌駅まで敷かれていた。上尾幌森林軌道も1950(昭和25)年まで存在していた。 この旅館は屋号から尾高旅館と想われたが、解体されて実在していない。 #
by mori-to_coa
| 2013-02-26 00:00
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2013年 02月 19日
![]() ■ 記念公園ハヨピラ / 1999年5月1日 ■ 「ここです!」というよな分かりやすい目印などなく、 通り過ぎた車をUターンさせた。 記憶がすごく曖昧になっているが、 辛うじて残る鉄製の柵?門のようなものを通り、 草生した小道を行くと、見上げた斜面にそれは存在していた。 当時は宗教的な施設の廃墟など撮ろうとも想っていなかったが、 取りあえずここまで来たことと、ガキの頃観たテレビの記憶、 そして、それを想い出させた写真家 高梨豊 氏の写真(確か、まだカメラ誌に 連載中であった『地名論』)の印象に惹かれシャッターを切ったのだった。 UFOを信仰するカルト教団が建てた所謂、神殿のようなもの。 鮮明に覚えているのはこの施設を写したことと、『マムシに注意』という立て看板だけで、 後は想い出そうとする私の意識が創り出した話かも知れない。 これもまた虚像であるようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 1957(昭和32)年に設立されたUFO研究団体『UFO教団CBA(コズミック・ ブラザーフット・アソシエイション:宇宙友好協会)』によって、 1967(昭和42)年にUFOとコンタクトするための基地、『記念公園ハヨピラ』として建設された。 その後、教団の解散とともに平取町に無償譲渡され一時、『ハヨピラ自然公園』として自然公園化。 しかし、会員自らが建設したためか階段が崩落するなど破損・損壊が著しく、 2007(平成19)年頃から、完全に立入禁止になってる。 #
by mori-to_coa
| 2013-02-19 00:00
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2013年 02月 12日
![]() ■ 旧日本陸軍 根室飛行場・掩体壕 / 1996年11月7日 ■ 根室市は千島列島への玄関口(中継地)として重要な拠点となり、 明治の開拓当初から発展し、北海道の中でも歴史があった。 残念ながら終戦間際の空襲で、古い街並みのほとんどを失ったが、 煉瓦サイロや倉庫、時代を築いた無線電信局など、 街の栄華を伝える証しが点在し残っている。 それととともに忘れてならないのは戦争遺産だ。 想定した北方からのアメリカ軍の本土侵攻に備えて、 急造された滑走路や掩体壕、トーチカなど、 いまだに形を留めるものも多く、一部、書籍などでも紹介されている。 戦後、多くの施設は土地ごと民間に払い下げられ、 写真の掩体(えんたい)壕は、牧場の倉庫・車庫などとして使われいたようだが、 私が訪れた時、家主が既にいなくなっていた。 『戦争』という名の下の遺産の脇に立つ、寂しい生活の記憶。 繰り返された終焉が見えていた瞬間である。 ◇ ◇ ◇ ◇ 太平洋戦争(第二次世界大戦)末期の1944(昭和19)年から翌年にかけ、 根室半島にはアメリカ軍の上陸に備えて、本土防衛のための施設が建造された。 それは敵を向かい討つための陣地であるトーチカが多いが、飛行場や電探所(地下施設)も整備されていた。 掩体(えんたい)壕とは、戦闘機や車両など爆撃から守るものである。 #
by mori-to_coa
| 2013-02-12 00:00
| Return 1996-2003
2013年 01月 29日
![]() ■ 石積倉庫 / 1997年10月6日 ■ 鉄道が物流の花形だった頃、 人が集う駅前には、倉庫が建並んでいたのだと想う。 その面影を見たくて、撮影の旅の途中よく駅に寄っていた。 北海道の畑作地帯のひとつである十勝管内(十勝総合振興局、旧十勝支庁。 またその区分を『十勝地方』と呼ぶ)には、明治期からと思われる古い倉庫がたくさんあった。 煉瓦ではなく石積であることが多いが、それはそれで趣があっていい。 写真の倉庫がどうだったかは忘れてしまったが、土地柄やはりJA(農協)所有のもが多かった。 それでGoogle Earthで位置関係を調べてみたら、 撮影メモで『JR根室本線・十勝清水』とあるのに、らしい倉庫は隣駅の『御影』に見えている。 記憶では寄った覚えもあるものの、もう15年以上も経っているうえ、 衛星の俯瞰画像で判断するは正しいといえない。 15年という歳月は短いようで長く、 北海道のローカルといえども街並みの変化は起きている。 いずれ確認の旅に出ないといけない。 いや、行きたくなったようである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 倉庫や塀などの建築資材とするべく切りだされた凝灰岩の石。加工がしやすく『軟石』と呼ばれる。 有名な『大谷石』もその一つで、北海道には旧北海道庁の基礎にも使われた『札幌軟石』がある。 輸送コストを考えると、近場の石を使うのが普通であるあるが、 この写真の倉庫に使われたのが、何処のどの石であるかは不明である。 #
by mori-to_coa
| 2013-01-29 00:00
| Return 1996-2003
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