2013年 03月 26日
![]() ■ 夕張市鹿島 / 1997年10月6日 ■ 初めて訪れた夕張市鹿島は、 古い街並みが続く、割と大きな集落だった。 ご老人が目立つが人々が暮らし、 その光景は、よくある北海道の山村のそのもの。 ただ、違っていたのは集団移転で、 地区そのものがなくなることが決まっていたことである。 すでに空家や廃屋、先行して移転した住宅等の解体が始まっていて、 その中で日々の暮らしが営まれていた。 移動販売車がかなり寂しくなった住宅街の一角に止まり、買い物に集まる住民たち。 何時からかは分からないが、商店などのほとんどはもう営業していないようだった。 国道を股ぐ歩道橋に『ありがとう… 』、『さよなら… 』とか横断幕が掲げてあった記憶があるが、 撮らずに後にしたので、ひょっとしたらまだ走っていた路線バスだったかも知れない。 ただただ、切なさに襲われる集落(まち)の状況だった。 廃墟には歴史や時間、生活や人の記憶が宿る。 それを撮れたらと想って始めたが、しかしその一歩手前は悲壮感に満ち、 すごく辛いもであった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 三菱鉱業の炭鉱とともに発展した夕張市の一地区。集落人口は最盛期で2万人にもおよび、 ひとつの都市並みに社会インフラが整備され、大変栄えた街であった。 石炭産業の下火とともに衰退が始まり、1990(平成2)年の三菱南大夕張炭鉱閉山が決定的となる。 その後、シューパロダムの嵩上げ事業により、地区全体が水没するため集団移転となり 1998(平成10)年に住民の全てがこの地を去った。 ▲
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| 2013-03-26 00:00
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2013年 03月 19日
![]() ■ 美唄市我路 / 1999年10月5日 ■ 私が周った多くの旧産炭地で、今でも印象に残る出来事、 それは美唄市我路を初めて訪れた時の光景である。 古びた木造が続き、 屋根の落ちた廃屋に露出する生活用品の数々。 積まれた畳、布団の生地の白さが目につく。 ゴーストタウンの様相を呈していた集落(まち)は、 ひどく荒れた状態で、まるで打ち捨てられたようであった。 写真を撮るのをためらうような中で、 お構いなしに道道の橋の付け替え工事が進んでいる。 気づけば長屋の玄関先で、心配そうに見つめる白髪の老婆の姿に、 如何ともしがたい感情が湧いた。 「今、必要なのは、これではないだろう… 」 廃墟を撮るならフィルムが何本あっても足りないだろう そんな我路の集落で数回だけシャッターを切り、車を走らせた。 もちろん今では有名になった映画館の映写室も写っていない。 何も写ってはいない。 ◇ ◇ ◇ ◇ 美唄市内で最後まで残っていた北菱産業我路炭鉱の閉山は1973(昭和48)年。 基幹産業を失った我路地区の衰退は著しく、空家が放置されていた。 冬期の積雪による屋根落ちや倒壊が多く、すごく荒れていたが、 その後、撤去や整理が行われ、草生した空き地が目立つ集落となった。 街並の一角にある往年の繁栄を伝える我路映劇は、 8年後の2007年10月7日の再訪時に撮影しているが、 老婆の住んでいた長屋はなくなっていた。 また集落を通る道道135号の延伸工事は、完成すると富良野市の島ノ下まで繋がるが、 美唄市側が遅々として進んでいない状況である。 ▲
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| 2013-03-19 00:00
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2013年 02月 19日
![]() ■ 記念公園ハヨピラ / 1999年5月1日 ■ 「ここです!」というよな分かりやすい目印などなく、 通り過ぎた車をUターンさせた。 記憶がすごく曖昧になっているが、 辛うじて残る鉄製の柵?門のようなものを通り、 草生した小道を行くと、見上げた斜面にそれは存在していた。 当時は宗教的な施設の廃墟など撮ろうとも想っていなかったが、 取りあえずここまで来たことと、ガキの頃観たテレビの記憶、 そして、それを想い出させた写真家 高梨豊 氏の写真(確か、まだカメラ誌に 連載中であった『地名論』)の印象に惹かれシャッターを切ったのだった。 UFOを信仰するカルト教団が建てた所謂、神殿のようなもの。 鮮明に覚えているのはこの施設を写したことと、『マムシに注意』という立て看板だけで、 後は想い出そうとする私の意識が創り出した話かも知れない。 これもまた虚像であるようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 1957(昭和32)年に設立されたUFO研究団体『UFO教団CBA(コズミック・ ブラザーフット・アソシエイション:宇宙友好協会)』によって、 1967(昭和42)年にUFOとコンタクトするための基地、『記念公園ハヨピラ』として建設された。 その後、教団の解散とともに平取町に無償譲渡され一時、『ハヨピラ自然公園』として自然公園化。 しかし、会員自らが建設したためか階段が崩落するなど破損・損壊が著しく、 2007(平成19)年頃から、完全に立入禁止になってる。 ▲
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| 2013-02-19 00:00
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2013年 01月 22日
![]() ■ 万字曙町 / 1998年10月3日 ■ (旅は前回の続きである) 北炭真谷地炭鉱の撮影の後、夕張本町に寄り、 再開発前の古い商店街を歩いた。 衰退振りが酷い状況だったが、あまりシャッターを切っていない。 今想えば、「何故、写さなかったのだろう?」と後悔もするが、 廃墟然と化した街も人々の暮らしが営まれていて、 そこが撮影の分かれ目だったのだと想う。 その後、車窓下から石炭の歴史村を確認しつつ、万字炭鉱へ。 国道から細い脇道で川の流れる谷合いに降りると、 僅か残された民家と解体された果てに残った炭鉱施設。 約1キロの谷間は、万字旭町・万字曙町・ 万字睦町・万字仲町・万字幸町と目まぐるしく変わり、 大きなが町があったことをうかがわせる。 先に見た夕張以上に、ここは過去の町の様相を呈し、 何ともいえない寂しさの空気に支配されていた。 当時撮影した壊れかけの民家は、冬期の積雪により完全に崩壊し、 後ろの高台に見える万字会館も、解体され姿を消している。 ◇ ◇ ◇ ◇ 独立系の炭鉱会社が開発を進めたが、山間部の僻地であり生産した石炭の輸送目途が立たなかった。 そのため夕張で展開していた北炭が1903(明治36)年に事業を引継ぎ(譲渡)、2年後に本格操業を開始する。 炭鉱名は開発者の朝吹家の家紋『卍』にちなみ『万字炭鉱』とした。 当初夕張方面としていた鉄道敷設を断念し、岩見沢方面に変更。 1914(大正3)年に、万字軽便線(後の国鉄万字線)が難工事を経て開通してから出炭量が増加する。 しかし複雑で脆弱な地質であったため出水量が多く生産が安定せず、 1960(昭和35)年には経営分離・子会社化され、万字炭鉱株式会社となる。 1976(昭和51)年の台風6号による出水事故で主力坑道水没が致命的となり、 復旧できないまま閉山となった。 現在、旧万字炭鉱の周辺は森林公園として整備され、 植林されたズリ山と、施設の構造物が僅かに残っている。 ▲
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| 2013-01-22 00:00
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2013年 01月 15日
![]() ■ 北炭真谷地変電所 / 1998年10月3日 ■ 2日の深夜、根室を出発。 ハッキリした旅の予定はもうわからなくなっているが、 夕張を中心に、その周辺のまだ見ぬ地域に足を伸ばそうとしている。 ただこの日の十勝・日高は豪雨(多分、台風→熱帯低気圧)で当日の行程を巧く決められず、 立ち寄ろうとしたえりも岬も、黄金道路は崖から出水しているもの凄い状況と、 猛烈な強風のため通過した(その後、1時間ほどで通行止めとなる)。 雨天の日は、その地の未乗線の客になるという決めごともしていて、 様似から静内までのJR日高本線を往復して、時間をつぶす。 その後、車を様似から静内まで移動させていたら、波浪により全線運休となった。 雨が上がり晴れて来たので、旧穂別炭鉱へと向かうが、 走行した山道のコンディションが悪く、無理せず途中で断念した。 この日は、ほぼフィルムのカウンターが進んでいない。 翌3日の早朝、苫小牧のウトナイ湖に寄り、夕張に向かう途中でも少し撮影。 この頃はカラーで別なテーマも進めているなど、1日の行程が複数の目的に充てられている。 モノクロのカウンターが進まない中、夕張の旧北炭真谷地炭鉱に到着。 実は前年1997年10月に夕張を初めて訪れているが、たどり着いてはいないかった。 当初は、手さぐり・取りあえず現地へということも多く、 ここの情報を持っていなかった(帰宅後、まもなく炭鉱の存在を知る)。 つまり、早い話がリベンジである。 ともあれ初めてみる真谷地は、まだ複数の施設が残り、廃墟然としていてよかった。 それにカメラを向けている構造物についても知識が薄く、 本当に「何だろう… ?」という感じでシャッターを切っていて、素直に向き合っている状態である。 そんな想いの中で撮った1枚の中に、この変電所の写真もあった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 北炭真谷地炭鉱の変電所。北炭清水沢発電所からの送電をここで変圧していた。 炭鉱本体が1987年に廃鉱になり、 役割を終えた施設は鉱員共同浴場として改装された。 その後、年代は不明だが閉鎖となり、放置されて久しい状況であった。 2007年の夕張市の財政破綻後、真谷地地区での残されていた旧炭鉱関係施設の解体整理が進んでおり、 この施設の現有も不明である。 ▲
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| 2013-01-15 00:00
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2012年 01月 30日
![]() ![]() ■ 2011年05月21日・北海道三笠市萱野 / Canon EOS 7D + EF-S10-22mm 1:3.5-4.5, Canon EOS KissX3 + EF-S17-85mm 1:4.5-5.6 IS ■ ▲
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| 2012-01-30 00:00
| 2011
2012年 01月 27日
![]() ■ 2011年05月20日・北海道美唄市 / Canon EOS KissX3 + EF-S17-85mm 1:4.5-5.6 IS ■ ▲
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| 2012-01-27 00:00
| 2011
2012年 01月 13日
![]() ![]() ■ 2011年05月18日・北海道小樽市春香町 / Canon EOS KissX3 + EF-S17-85mm 1:4.5-5.6 IS ■ ▲
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| 2012-01-13 00:00
| 2011
2011年 12月 19日
![]() ![]() ■ 2011年05月17日・北海道雨竜郡沼田町 / Canon EOS 7D + EF-S10-22mm 1:3.5-4.5, Canon EOS KissX3 + EF-S17-85mm 1:4.5-5.6 IS ■ ▲
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| 2011-12-19 20:00
| 2011
2011年 11月 18日
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